市外大崎から八戸を経て神野町に走路1000mの常設競馬場を建設し移転
1929(昭4)年:西神野町での佐賀競馬が開催された
競馬場の総面積は11、000坪、馬場6、300坪、建造物570坪という
その頃では九州屈指の模範競馬場であった
この頃には農機具が次第に機械化され、農耕馬の姿を見かける事も少なくなっていたが
支那事変の拡大とともに
その馬の重要性が再認識され、そのときに交付された軍馬資源保護法により
1939(昭14)年:神野町の馬場は軍用保護馬鍛練場に指定され鍛練馬競馬の場となる
それまでの競馬に比べて面白くなく、当然に観客も集まらない競走であった
1943(昭18)年:太平洋戦争の勃発により西神野町の馬場の鍛練馬競馬も中止
場内施設は市内の軍需工場、新聞社等に貸与され、走路は野菜芋畑と化した
敗戦後、一般の馬事愛好者が県と占領軍の許可を得て
1946(昭21)年:地方競馬として、西神野町での佐賀競馬が再開された
1948(昭23)年:新競馬法にもとづき公営に移行し県営競馬として西神野町での競馬が行われ
以降、県および佐賀市、芦刈村外五ケ町村競馬組合の主催する競馬をおこなう事になった
その後、鹿島競馬組合、佐賀東部競馬組合などの主催による開催などを経て
佐賀県競馬組合が設立され県競馬組合による競馬施行となった
競馬場付近には多布施川、神野公園があり遊びに来る人も多く
競馬の開催回数の増加にともない開催時における人、馬、自動車等の洪水で大混雑
また、競馬場周辺には人家も増え朝夕の通勤通学にも支障をきたすようになり
競馬場を鳥栖市江島町に移すこととし
1972(昭和47)年:西神野町での競馬は終了する
跡地周辺の住宅団地付近には西九州大学短期大学部なども建つ
佐賀市神野町大字西神野(現:神園)
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